· 

タイムリミットが迫るなか、卵子提供を考えている。

結婚も妊娠出産も育児もしたくない、と決意したのは、本当に早い時期だったように思う。

中学生のときには既に自分の発生の過程に対する生理的嫌悪を持っていた。

それでも、子どもを切に望む人々がいること自体は、知っていた。

 

海堂尊さんの小説『ジーン・ワルツ』に夢中になるより前に、不妊治療について知る機会があったからだ。

母と仲のいい女性が、不妊治療の末に子どもを授かったのだと話すのを聞いていた。

そのときに、不妊治療は、痛くて、お金も時間もかかって、それでも望む結果になるとはわからないものだと知った。

漠然と、とても大変そうだなと思った。

 

漠然とした「すごい大変そう」が具体的な「とんでもなく大変そう」に変わったのは、先ほど挙げた『ジーン・ワルツ』を読み、そして大人になって不妊治療にかかる金額や時間をよりリアルに想像できるようになったからだ。

子どものときの10万円は「わあ大金」だけど、今になれば、「大きなお金だけど、それで1か月生き延びるのは無理」とわかる。

もちろん不妊治療にかかる費用は、10万円ではすまない。

 

そんなに大変な思いをしてまで、子どもが欲しい人々のことを、私は理解できずにいる。

存在を知っていることと、その感覚を実感として自分のなかで腑に落ちさせることは、全然違う。

でも、理解できないけれど、そういう考え方の人々がいると知っていることには、意味があるのではないか。

多様性の尊重って、そういうものだと思う。

 

まあ、社会においては、子どもを授かりたい人よりも、子どもを望まない人に「何で?」と問いが投げかけられるのだが。

「それ、子どもを望む人にも質問するのか?」と食ってかかりたくなるし、実際何度かそうした。

そもそも妊娠出産は、母体となる人間にリスクが偏る営みであるのに、そのリスクを負わない人々は、その不均衡を無視しがちだ。

 

妊娠出産を望まないことは確定なのだから、自分が妊娠出産について考える必要なんて特にないような気がしていた。

私は、一人で生きていくことを決めているし。

 

突然だが、私には遺伝疾患がある。

一般的にはアルビノと呼ばれ、眼皮膚白皮症として指定難病にもなっている。

それから、発達障害の一つ、ASD(自閉スペクトラム症)も遺伝らしい。

 

遺伝する障害や疾患のある身として、さまざまな形で優生思想にさらされ、自分を消そうとしてくる優生思想に向き合い続けていくうちに、着床前診断や新型出生前診断に関心を持ち、結局、妊娠出産について何も考えないわけにはいかなくなった。

 

生殖そのものへの生理的嫌悪感と、優生思想への抵抗のために直視せねばならない現実の間で、揺らいでいた。

そんなときに、2冊の本に出会った。

佐々木ののかさんのインタビュー集『愛と家族を探して』と、吉川トリコさんのエッセイ『おんなのじかん』だ。

 

『愛と家族を探して』では、さまざまな家族のあり方を実践する人々へのインタビューが書かれている。

そのなかに、恋愛やセックスの経験がないが、精子バンクを利用して出産した人が登場する。

私は、その話を何度も読み返した。

ある思い出が脳裏によみがえったからだ。

 

数年前に、卵子提供を考えてみたことがある。

でも、「日焼け対策と弱視への対処さえすれば日常生活を送れるとはいえ、指定難病は指定難病だ。そうとわかって、私の卵子を必要とする人なんかいるはずはない」と問い合わせすらしなかった。

どこかの卵子提供のドナーの団体には、明確に、「遺伝疾患をお持ちではないこと。」と書いてあった。

優生思想め、と思いながら、どこか納得してしまったのだ。

 

そんな過去を取り出したばかりの頃に、吉川トリコさんの『おんなのじかん』を読んだ。

たくさんのエッセイのなかで、不妊治療のことにもふれられていた。

コストの観点から、子どもを望むなら若いうちに卵子凍結をおすすめするとあって、深く頷いてしまった。

そう、時間は不可逆だ。

 

卵子凍結にも、卵子提供にも、タイムリミットがある。

現在27歳の私にも、切迫してはいなくても、それが刻一刻と近づいていることは間違いない。

そのことを再度認識して、卵子提供への関心が、高まりつつある。

 

数年前に卵子提供について調べたときは、「自分の遺伝子を持った子どもから手紙が欲しい」と書いていた。

でも、今は考えが変わっている。

 

もちろん、自分の遺伝子を受け継ぐ子どもがどう育つのかには、関心がある。

人間に生理的嫌悪感を抱く私だが、人間の生命システムには興味が尽きない。

でも、子育てに参加したいとは思わない。

ただ、生まれた子どもが「出自を知りたい」と考えたときに応じるつもりはある。

 

何というか、高い志とか、そういうのはない。

私が持っていて、使う予定のないものを切実に欲しがっている人がいる。

私は卵子提供に興味がある。

それならやってみようかなというくらいのテンションだ。

 

留まるところを知らない優生思想への抵抗の意味合いもないではない。

病歴などを開示して、その上でレシピエントに私の卵子が選ばれないことがあっても、それはレシピエントの選択なので納得するが、初めから選択肢に存在することすら許されないのは、完全に優生思想だと思う。

 

でも、どうなんだろう。

アフリカの一部地域では、アルビノの人々がその身体を狙われ、傷を負ったり命を落としたりしている。

アルビノの私の卵子は、そういう意味で悪用されることは、ないだろうか。

 

卵子を提供する以上は、生まれた子どもを大事に育ててくれる人に提供したい。

そう思うと、私が卵子提供をしてもいいのか、悩ましいところではある。

 

シンプルに考えると、興味があるからやってみたい、に尽きるのだけど。