この間、27歳の誕生日を迎えた。
直接交流はないが、親の言葉からかつての同級生達が結婚、妊娠、出産、育児をしていると知ることが増えた。
法的に結婚できるようになってから10年以上は経過している身でありながら、私は自分が結婚できるとは思えない。
ゲームで言うなら、選択肢として表示されないといったところだろうか。
少しだけ法律に関する記事も書かせていただいているので、結婚、離婚にまつわる法律上の知識も多少ある。
結婚は、相当に強い契約行為なので、解消も一苦労なのだ。
ありていに言えば、面倒くさい。
面倒だから結婚しないのではなくて、結婚はそもそも選択肢として私のなかに存在しない。
結婚するにあたって、結婚式をするか否か、両家顔合わせなど各種儀礼的なものはどうするか、新居は、仕事は、など、途方もなく多くのことをカップルで決めていくのは、想像に難くない。
しかし、結婚する気がない私にそのようなことを考える必要はない。
結婚しないのだから、当然だ。
しかし、結婚に興味がない、考えもしていないことを周囲に感づかせておかないとそれはそれで厄介なのである。
さすがにお見合い話を持ってくる人などはいないが、日常で「いい人いないの」「結婚しないの?」と不意打ちで刺されることは多い。
家族は私のセクシュアリティの名称や意味こそ知らないが、私が結婚を望むはずもないと察しているだろう。
けれど、関係性の薄い人はそうはいかない。
私がシスジェンダーでヘテロセクシュアル(性別に違和感がなく、異性愛者であること)だと決めつけて、話を進めてくる。
これは全然仕方なくないのだけど、関係性の薄い人に毎回説明をするのも手間なので、「結婚を望まない」と伝えるに留めている。
本当はこんな説明をしなくてもいい世界が理想なのだけど、他人は時に余計なことをするから、先手を打たねばならない。
27歳にもなってくると、大概の人が結婚前提のお付き合いを求めているようで、「結婚を望まない」とさえ伝えれば、パートナー候補を紹介されるような事態を大方回避できる。
しかし、回避できない質問がある。
「何で結婚したくないの?」だ。
聞かれる度に思う。
あなたは、結婚を望むカップル皆に「何で結婚したいの?」って聞くんですか。
聞かないでしょう。
その結婚に懸念がある場合はともかく、結婚したい意思は当然のように受け入れるんでしょう。
なのに、結婚したくない理由は説明を求めるんですか。
マイノリティの側にだけ説明を求める不均衡については、社会学者の方々が書いているが、本当にその通りだと思う。
説明を求めること自体が特権的なのだけど、そのことに無自覚な人々は、私に説明を求めてくる。
そこまでひどくなくても、私と交流のある人々のなかには、「何としても結婚したい」「一人で生きるのは嫌だ」と考える人がいる。
私は「何かに縛られたくない」と考えているので、結婚を望む人と話すと、自分と相手の対称性が見えてくる。
結果として、結婚しないことを考えるに至る。
結婚したくない理由を簡潔に述べると、「縛られたくないから」「一人が心地いいから」だ。
結婚を「紙切れ一枚のことだよ」と語る人もいるが、法的にはまったくそうではない。
姓の変更、財産や居住空間の共有をはじめとした、たくさんのことが降りかかってくる。
社会から、個人ではなく、夫婦や世帯として扱われることにもなる。
個々の事情にもよるだろうが、親戚付き合い、冠婚葬祭などの儀礼的なものも発生することがある。
他者の決定が、一人の頃よりも強く、自分の人生に介入してくる。
私はそれが嫌だ。
プライベートな時間は全部自分のために使いたいし、自分で稼いだお金の使い道は自分の意思だけで決めたい。
私は、他者に自分の領域を侵されることを心底嫌っているのだ。
私には、結婚は不自由を選ぶことのように見える。
結婚を望む人々には、その不自由を補って余りあるメリットが感じられるのかもしれない。
でも、私には感じられない。
それだけのことだ。
説明を求められる度に、「結婚の何が嫌か」を言語化する試みが発生せざるを得なくなり、結果として、「結婚しない」ことを考えることになった。
周囲の人々の結婚に関する悩みに、一般的でなく、だからこそ価値のある問いを投げかけることができると評価されるようになったくらいしか、いいことがない。
今までは、「何を選ぶのか」ばかりを考えていたが、結婚についての思考のなかで、「選ばなかった選択肢」のことも考えられるようになった、気がする。
それは、いいことかもしれない。