· 

変貌するリアル

「政治や社会のニュースがつらい。目に入れたくない」と言った友人がいた。そうやって目を背けることに、私は否定的な感情を抱いた。それを積み重ねた結果、無気力で無関心な国民が出来上がってしまったのじゃないかと、そう思ったのだ。

 

でも、「プライベートが自分と大きく異なる高校大学の同期をSNSで見ているのがつらい」というのには、私も同意した。自分より収入が高い人を見ると、やはり複雑な思いがある。余裕があっていいなあと思ってしまうし、現実的に、収入が違うと、友達付き合いも難しい。カフェでお茶するにも、食事するにも、入るお店が違うからだ。

 

いいや、収入の違いなんか、言い訳だ。知っている。私は、用がないと他人に連絡しない。その原則を破ることはほぼなく、例外は、相当に仲のいい友人だけだ。例外である友人達は、別に私と収入が同じではない。

 

「経済状況が大きく異なるからもう友達でいられない」は、間違いではない。そういうこともあるだろう。でも、私の場合、「経済状況の違いを考慮しあってまで、続けたい関係ではない」から、ぷつり、ぷつり、と関係が途絶えたのだ。

 

そこそこ好意的に思っていた同期が結婚すると聞いて、動く心が何もなかった。指は、「ウェディングドレス、きれいだろうなあ」と楽しげな文章を打ったが、そんなもの、漫画で見た反応をアレンジすれば、誰にだってできる。

 

同期でメッセージを送ろうという話を聞いたとき、私は、真っ先に、自分が手紙や寄せ書きの文章を苦手としていることを思い出し、青ざめた。ライターをしているのに、メッセージで、文章が拙いなんて思われたくない。だから、何か理由をつけて、メッセージを断りたい。

 

そう考えた自分に気づいたとき、私は、同期を祝う気持ちなどどこにもないことを自覚した。自分の文章の巧拙しか、興味がなかった。結婚式のメッセージなんて、究極、拙くたっていいのだ。祝いの気持ちが入っていれば、「おめでとう」と書いてあるだけでも、その場の雰囲気でいくらでも感動できるものだ。それは言い過ぎか。

 

そもそもにして、私の大学生活は、うつ病のために、悲惨な終わり方をした。なので、同期を通してあの頃を思い出すことは、私にとって精神不安定になるきっかけを作ることでしかない。

 

同期への気持ちもない。関係を続けることで、精神不安定にもなる。それならば、私は関係性を捨てよう。何も感じない関係に時間を割けるほど、私は暇ではない。ただでさえ、対人リソースが少ないのだから。

 

自分で選んだことだから、全然いいのだけど、仕事に関係ない友人が、どんどん減っていく。それもまた、選択だ。最適化に向かっていればいいと願いながら、私は今日も息をする。