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ほんのきもちに、救われた。

ほんのきもちギフトという名称が、すっと心に入ってきて、頼ってみようかなと思えた。これが、女性の貧困支援などと銘打たれていたら、私は、怖くて行けなかったかもしれない。

 

でも、正直に言えば、ほんのきもちギフトというやわらかな名前であっても、頂くことに罪悪感がないわけではなかった。

 

人から無償で物を頂くことに、とても抵抗がある。私という存在に、無償で何かしてくれる人なんているはずもない、いるとしたら怖い。そう思ってしまう人間だ。

 

それは、私の自己肯定感の低さゆえでもあるし、利害関係でしかものを考えられない私の思考の癖によるものでもある。

 

私は、何も返せない。それなのに、無償で食料や生活用品を頂いていいのだろうか。そんな思いがあった。

 

今は非常時だし、そうでなくても、人には生存権があるのだと知っていても、罪悪感は消えなかった。

 

行くのが、怖かった。だが、食費が心もとない現実は、待ってはくれない。食べなければ、生きていけない。

 

怖いだけでなく、恥ずかしかった。食費が心もとないのは、私が長時間働くことができないからで、それは持病の関係上、仕方のないことだ。それでも、お金がない私は、劣っているように思えた。惨めだった。

 

行くと決めた日に逃げないように、Googleカレンダーにきっちり予定を書きこんで、それでもすくむ足を動かして、お店の前に行った。

 

勢いでお店に入ったはいいものの、「ほんのきもちギフト」のことを話すのが、怖くて、声が出なくなってしまった。お店の方が、「ギフトですか?」と優しく声をかけてくれなければ、私はきっと帰っていた。それくらい、怖かった。

 

声が思うように出ずに、何とか頷いて、ほんのきもちギフトを頂き、リュックサックに詰めて、ようやく出るようになった声で、何度もお礼を言ってお店を出た。泣きそうだった。

 

私は、自分にほんのきもちギフトを頂く資格があるのかを考えて、ずっとためらっていた。折れそうな心で、なけなしの勇気を振り絞った。申請条件がないことが、ある種の救いになった。

 

何も聞かずに、笑顔でほんのきもちギフトをくださったお店の方も、企画・運営してくださっている方も、本当にありがとうございました。

 

貧困とか、困窮とか、そんな言葉で自らを括るのが怖いからと、そういった支援を受けることを、私は恐れていた。それは、内面化された自己責任論でもある。

 

家に帰って、ほんのきもちギフトを開けて、アンケートを入力しながら思った。生きて、私は私にできることをしよう。それが、ほんのきもちギフトに対する私のお礼だ。

 

もし、ほんのきもちギフトを受け取ることをためらっている人がいるなら、怖くもないし恥ずかしくもないと伝えたい。

 

重ねて、ほんのきもちギフトと、関わった人々にお礼を申し上げます。